特許発明 技術解説 Blog (2) 「情報処理装置、情報処理方法、およびプログラム」(特許第7508154号)
◼️はじめに
この特許発明は、東京大学の特任准教授であり、技術系スタートアップ企業 株式会社カルマリオンの取締役である乾(いぬい)氏によって出願され特許取得されています。現在の特許権者は株式会社カルマリオンとなっています。
量子化学計算を利用して、目的に合った物質を探索する計算装置または計算方法に関する発明で、物質の性質に関わるパラメータ探索方法に特徴があります。
◼️ハミルトニアン
一般的に物理でハミルトニアンというと、運動エネルギーとポテンシャルの和、つまり全エネルギーをいいますが、量子力学の分野ではSchrödinger方程式における波動関数Ψをエネルギーに写像する演算子を言います。時間に依存しないSchrödinger方程式HΨ=EΨのHがハミルトニアンです。Schrödinger方程式HΨ=EΨは、ハミルトニアンHが決まれば解Ψ、Eが決まります。そして波動関数Ψは電子の状態を表すので、物質の多くの特性(少なくとも電子状態に由来する物性)が決まります。
: ハミルトニアン, ^は物理量ではなく、演算子であることを明確化するためにつけた
: 換算プランク定数
m : 電子1個の質量
ri,rj : 電子の位置
V : ポテンシャル(具体的な関数形はモデルによって異なる)
U : 電子間の相互作用(具体的な関数形はモデルによって異なる)
物質の分子構造等からハミルトニアンが決まり、ハミルトニアンが決まればSchrödinger方程式を解くことで、その物質の特性が計算できる、というのが通常の流れですが、本特許発明は、この逆問題を解くことを目的としています。つまり、Schrödinger方程式を解いた結果が、所望の物質の特性となるようなハミルトニアンを探索するという、物質探索の技術に関する発明です。
この発明では、探索範囲の物質全てをカバーするように一般化された形で記述され、物質毎の差異を表現したパラメータθを含む数式でハミルトニアンHを表します(Hはθの関数H(θ)として扱う、これ自体はよくあるアイデア)。このように表現することで、物質探索の問題は、物質の特性の目標値と、H(θ)から計算される物質の特性値の差異を目的関数とし、目的関数が最小となるようなθを求める問題に帰着します。
なお、本件特許公報には、「ハミルトニアンHにパラメータθによって変動する項を追加するか、又は、運動エネルギーT、ポテンシャルエネルギーV、および相互作用エネルギーUの少なくとも何れかにおいてパラメータθの影響を考慮することによって、パラメータθの関数として、ハミルトニアンH(θ)を表すことができる。」(【0017】段落)、と記載されています。
また、本件特許公報には、パラメータθによって決定されるハミルトニアンの例として、結晶構造をもつ物質に適用できるハミルトニアンが示されています(【数2】)。
この例だとパラメータθは、θ={t,v,ω,g}となります( c,aは演算子なので、パラメータには含まれません)。
上式は実施例の一つにすぎませんが、パラメータt, V, ω, gの総称をθとすると、パラメータθの関数としてハミルトニアンH(θ)が表現されています。
◼️最適化アルゴリズム
目的関数とは、その値を最小化または最大化したい、最適化の対象となる関数です。そして最適アルゴリズムとは、目的関数を最小あるいは最大とする関数の入力値を探索するアルゴリズムのことをいいます。最適化アルゴリズムは数多く存在しますが、本特許発明に関する最適化問題、つまり、制約条件なしの連続変数非線形問題を解くものとしては、ニュートン法、準ニュートン法、最急降下法などがあります。
(1)最急降下法
目的関数をf(x)とし、f(x)を最小化したいとします。f(x)の引数は、ベクトルxとします。第kステップの探索点x(k)から、次の探索点x(k+1)を次のように定めるアルゴリズムを最急降下法といいます。
α : 緩和係数. α > 0
勾配ベクトル∇f(x(k))の方向は目的関数f(x(k))の値が増える方向なので、その逆方向に(-αをかけた方向に)進むことで目的関数の値を減らすことを狙ったアルゴリズムです。
本件特許公報の【0037】段落に記載されている最適化アルゴリズムの例、確率的勾配降下法、Adam、RMSPROP、K-Fac、EK-Facは、最急降下法から派生したアルゴリズムです。
(2)ニュートン法、準ニュートン法
ニュートン法では、解の更新を以下のようにします。
H : ヘッセ行列、正定値行列であることが必要
最急降下法の緩和係数α>0を正定なヘッセ行列に置き換えた形となっています。アルゴリズムの導出過程が全く違うにも関わらず、形が似ているのが興味深いですね。ヘッセ行列は目的関数の2階微分行列であり、また、ニュートン法ではヘッセ行列の逆行列H-1が必要です。目的関数の2階微分をとることができない場合が多々ある、逆行列の計算負荷が大きい、という理由で、ヘッセ行列Hを別の近似値に置き換えた準ニュートン法の方が良く使われます。
◼️自動微分
複雑な関数も、加減乗除などの基本的な算術演算や、指数関数、対数関数、三角関数など基本的な関数の組み合わせで構成されています。関数の構造および合成関数の微分の連鎖律を利用して、微係数の値を求める手法を自動微分といいます。
簡単な例で自動微分の計算手順を見てみましょう。
【自動微分の計算手順の例】
①問題
y = f ( g(x) ) + h ( x ) の微分値を計算する。
関数 f(x)、g(x)、h(x)は、基本的な関数で、任意の引数xに対して微係数 f’(x)、g’(x)、h’(x)が 計算できるとする。
また、f’(x)が計算できることから、f’(g(x))も計算できることに注意する。
②解法(リバースモード) :
(i)計算グラフへの分解
中間変数 v1,v2, v3, v4, v5 を用いて、元の式を次のように表現します。
v1 = x
v2 = g(v1)
v3 = f(v2)
v4 = h(v1)
v5 = y = v3 + v4
このとき、変数同士の関係性は以下のようなグラフで表現できます。

図. 中間変数同士の関係 : v1はv2,v4に影響を与え、v2はv3に影響を与え、v3はv5に影響を与え、v4はv5に影響を与える。
(ii)関数値の計算
v1,v2, v3, v4, v5を計算する。
(iii)逆伝播による微分値の計算
y を vi で偏微分する際、vi が影響を与える変数を vj とすると、
により、偏微分値を計算する。これは微分の連鎖律より正しい操作である。
この操作をv5、v4、v3、v2、v1と順番におこなう。
v4が影響を与える中間変数はv5だけだから、
v3が影響を与える中間変数はv5だけだから、
v2が影響を与える中間変数はv3だけだから、
ここで、
は、本問の設定では既知である。
よって、
v1が影響を与える中間変数はv1とv4だから、
ここで、
および、
は、本問の設定では既知である。
よって、以下の通りに微係数がもとまる。
決まった手順により、微係数が正確に求められることが分かったと思います。変数が多い関数の微分においては、数値微分に比べて大幅に計算量を減らすことができ、また、計算の安定性も優れているので、自動微分が有利です。
◼️本件特許発明の最適化問題
本件特許発明では、超伝導転移温度、超伝導ギャップ、熱電効率、太陽光発電効率、及び外場(例えば、磁場、電場、電磁波、音波、圧力)に対する線形または非線形の応答(ホール係数等)等など、分子や固体中の電子状態により定まる物質の特性量をPと表現しています。
ハミルトニアンのパラメータθを決めると、H(θ)が決まり、Schrodinger方程式を解くことにより、物質の電子状態が求まり、Pが求まります。つまり、Pはθの関数なのでP(θ)と表現します。
また、目的関数をLで表現し、特性量P(θ)を特定の目標値 Ptに近づけたい場合、
と目的関数を定義し、L(θ)を最小化する最適化問題を解きます。つまり、本件特許発明の最適化問題は、L(θ)を最小化するθを求める問題です。
◼️本件特許発明(請求項1)の構成要件
本件特許公報に記載されている請求項1の発明について、構成要件毎に技術的な説明を加えると下表のようになります。
本件特許発明は、ハミルトニアンのパラメータθの探索に自動微分を用いることが特徴です。株式会社カルマリオンは自動微分を利用したパラメータ最適化技術を強みとしており、自社の強みを活かした発明だと思います。
ところで、本件特許の審査段階において、意見書の中で、出願人は自動微分が先行技術との差異の一つであると主張していることから、自動微分の利用が本件特許発明の新規性・進歩性の重要な要素であると推測されます。しかしながら、本件特許広報では、ハミルトニアンのパラメータθの探索問題にどうやって自動微分を実装するか、具体的な方法は明らかにされていません。
しかし、本件特許の出願時(2023年1月12日)より前から自動微分は一般的な技術であり、jax.gradなどのライブラリが提供されていることから、当業者が自動微分を用いたパラメータ探索を実装することは容易にできたはずです。よって、実施可能要件(第 36 条第 4 項第 1 号)に違反することはないと思われます。
自動微分を効果的に利用するには、公表されていない多くのノウハウが必要と思われるのですが、最小限の公開範囲で上手く特許を取得していると思います。
2026年5月15日 田中洋一

