特許発明 技術解説 Blog (1) 「量子古典コンピューティングハードウェアを用いた量子コンピューティング対応の第一原理分子シミュレーションのための方法とシステム」( 特許第7312173号)
■はじめに
この特許発明は、カナダの量子化学のスタートアップ企業Good Chemistry社( 2024年からSandboxAQの傘下)が出願したもので、量子化学計算をNISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum: ノイズを含む中規模量子ディバイス)量子コンピュータで計算可能とするための、分子を分割して計算する方法およびシステムです。
■量子化学計算
計算機の精度向上、密度汎関数法の改良、優れたソフトウェアの出現などの要因により、 2000 年代後半から材料開発の分野で量子化学計算が本格的に活用されはじめ、現在では材料開発の標準的な設計ツールとして定着しています。
量子化学計算は、一言でいえば、 Schrödinger方程式を解くことによって分子の電子状態(波動関数や電子密度)を求める計算であり、得られた電子状態から物質の様々な性質を推算することができます。
物質の性質を調べることが目的である場合、時間に依存しない Schrödinger方程式、
H: Hamiltonian 演算子、Ψ:波動関数、E:エネルギー
を数値的に解くことになりますが、この計算は、電子数が増えると指数関数的に複雑になり、電子数が数十を超えるだけで計算が著しく困難になり、材料開発において調査対象となる分子の計算など到底できないことになってしまいます。
この課題を部分的に解消する方法が密度汎関数法(DFT: Density Functional Theory)です。波動関数からエネルギーを求める代わりに、Hohenberg–Kohn の定理に基づき、電子密度(位置の関数)からエネルギーを計算する汎関数(密度汎関数)を用いることにより、波動関数を直接扱うことを回避して計算を大幅に簡略化しています。
しかしながら密度汎関数法にも弱点があります。それは、電子密度からエネルギーを計算するための密度汎関数により計算精度が決まる一方、 電子の相互作用を完全に表現する密度汎関数の形は誰にも分からないということです。密度汎関数は経験的、実験的な方法で開発されており、多くの研究者の努力により様々な用途において実用に耐えるレベルの密度汎関数が開発されているものの、いまだ実験による各種物性値の測定を代替するほどの精度には至っていません。
■ 量子化学計算のための量子アルゴリズム
2010 年代から産業界において量子コンピュータが注目されるようになり、幅広い分野での量子コンピュータの応用研究が始まりました。このような情勢の中、Schrodinger 方程式を量子コンピュータで解くためのアルゴリズムの一種である Variational Quantum Eigensolver(VQE)が Alán Aspuru-Guzik らによって考案されました。VQE は量子測定と古典コンピュータによる最適化を組み合わせて Schrodinger 方程式を解くアルゴリズムです。
Schrödinger方程式の Hilbert 空間での表現は、θをパラメータとして、
と表現できます。
古典コンピュータにより|Ψ(θ)〉を求めようとする場合、例えば、基底関数法によれば、
( パラメータθは、既知の基底関数φiの係数ciに置き換えられる )
と、既知の基底関数φiの線形和として表され、Schrödinger方程式 H|Ψ〉=E|Ψ〉は、
と表されます。
両辺について、基底関数φjの共役複素数との内積をとると、
となります。
とおくと、
( 正規直交基底の場合、Sijは、i=jのときSij=1, それ以外はSij=0 )
H'をHjiをj行i列要素とする行列、cをcjを要素とするベクトルとすると、
となります。
ベクトルcは、波動関数|Ψ>を構成する基底関数の係数なので、cが分かればSchrodinger方程式が解けたことになります。Schrodinger方程式を解く問題は、行列の固有値問題に帰着することが分かります。
しかし、ここで行列の次数の問題が発生します。前述の議論は1電子についての話で、多電子系の場合、波動関数は更に複雑になります。
電子の数をM個として、電子が入る軌道(スピン軌道)の候補の数をN個とします。N個のスピン軌道にM個の電子を配置する組み合わせの数は、
となります。この組み合わせのインデックスをk = 1,2,…, K 、
とします。k番目の組み合わせにおいて、選択されたM個のスピン軌道を
とすると、M個の電子の波動関数は次式で表現できます。
ここで、ΦkはSlater行列式であり、
Ckは、slater行列式の係数です。
未知数の係数の個数は、K = N!/(M!(N-M)!) 個となります。電子のスピン軌道の数Nは電子の2種類のスピン↑と↓について考慮されるので、少なくとも電子の個数Mの2倍以上となります。例えば、水分子(電子10個)を最低限の軌道数(N=20)で計算する場合でも、
K = 20!/10!(20-10)! = 184,756となり、18万×18万行列の固有値問題を解くことになります。
さらに、計算精度をあげるために、スピン軌道数をN=40と増やすと、K =8.4×10^8となり、扱う行列の次元数はあっという間に数億に達します。
このように、電子数が増えることにより扱う行列の次数が指数関数的に増え、実用的な精度を求める場合には、小さな分子でも行列の次数は数億に達します。さらに、エタンやプロパンといった数個の炭素を持つ分子では、次数は容易に数兆を超えます。このような巨大な次数の行列の固有値問題を解くことは、古典コンピュータでは不可能です。
量子アルゴリズムVQEは、基底関数展開を量子測定に代替することで、巨大な次数の行列の固有値問題を解くことを回避します。
両辺について波動関数|Ψ(θ)〉の共役複素数との内積をとると、
だから、
を量子測定で直接計測し、古典コンピュータで勾配法などにより、Eが最小となるようにθを定めるのがVQEの原理です。
密度汎関数により精度が左右され、かつ、高性能な密度汎関数を開発することが難しい密度汎関数法と異なり、VQEは基底関数法と同等の計算結果を得ることができ、理論的には、基底関数の数を大きくすることにより、いくらでも計算精度をあげることができます。これが、密度汎関数法が広く普及している中でも、量子コンピュータを使った量子化学計算が注目されている理由です。
■ 問題分解
量子コンピュータ、古典コンピュータに限らず、原子数が多い分子について量子化学計算を実行することは、量子コンピュータなら量子ビット、古典コンピュータならメモリの制約から困難です。そこで、計算対象の分子を複数の断片に分割し、断片毎に計算を行う方法が考案されています。代表的な方法としてDivide-and-Conquer (DC) 法、Fragment Molecular-Orbital (FMO) 法などがあります。
■ 特許発明の内容
最も権利範囲が広い請求項1(方法に関する発明)および請求項23(システムに関する発明)は、以下の特徴を持つ方法、またはシステムです。
(1)量子コンピュータと古典コンピュータを使って量子化学計算を実行する
(2)分子の複数の立体配座をメモリなどに保存し、妥当性、健全性などを判定する
(3)逐次、立体配座を取り出し、分子をフラグメント(断片)に分解する。
DC法、FMO法等の問題分解法においてフラグメント間の相互作用が考慮されるので、これらの問題分解法にしたがってハミルトニアンを構築する。
(4)ハミルトニアンの期待値、つまり、エネルギーをVQE等の量子アルゴリズムで計算する。
(5)計算結果を出力する。
表. 請求項1の構成
本件発明は、量子コンピュータでは直接扱えない大きなサイズの分子を適切に分断し、NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum: ノイズを含む中規模量子ディバイス)量子コンピュータで処理が可能な部分と、古典コンピュータで処理が可能な部分に切り分けた点に新規性があります。量子化学計算を量子コンピュータで実行しようとすると、ほぼ、本件発明の方法にならざるを得ないので、文言上の権利範囲は広く、特許回避は難しいでしょう。
しかしながら、本特許には有効性について懸念があると思われます。本特許は、簡単に言えば、既知の分解法(DC法、FMO法、DMET法など)で分子をフラグメントに分解して、既知の量子アルゴリズム(VQEなど)で解くことです。確かに「分解法」と「量子アルゴリズム」の組み合わせは、本件特許出願より前に存在せず、少なくとも新規性はありますが、大きな分子を計算する際に、小さなフラグメントに分解して計算することは、当業者にとって自然なことであると考えられます。
現実に、本件特許は審査時に特許法29条1項3号(新規性)と29条2項(進歩性)の拒絶理由を通知されており、これに対して、出願人は補正と意見書により、拒絶査定を回避しています。
出願人は、意見書の中で「当業者が仮に引用文献1の教示に基づいてドメイン分割を実施できたと仮定致しましても(本出願人は、斯かる仮定はあり得ないと考えるのでありますが)、引用文献1の目的を根本的に変更するような、フラグメント間相互作用を追加する変更には想到し得ないであろうと思料します。」と述べていますが、明細書の中には、独自の「フラグメント間相互作用」についての記述はなく、既知のDC法、FMO法、DMET法等に元々含まれるフラグメント相互作用を考慮する方法が、本件発明の「フラグメント相互作用を使用する」方法であると解釈できます。そうすると、意見書で述べているような当業者が「フラグメント間相互作用を追加する変更には想到し得ない」ということは、あり得るのか、という疑問が生じます。
いつも、「当業者が容易に想到できる」という判断基準は難しいですね。
2026年5月1日 田中洋一

